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楓(かえで/かへで)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の17番艦。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦「樺型」3番艦)である。丁型一等駆逐艦第5505号艦として横須賀海軍工廠で建造された。 ==戦歴== 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され、訓練の後、1945年(昭和20年)1月20日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少将・海兵43期)第五十二駆逐隊に編入され〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.44〕、1月22日に門司を出発するモタ33船団を護衛して台湾に向かう〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.46〕。この頃、第五十二駆逐隊の「杉」と「樫」が空襲により損傷して後方に下がるため、その代役として台湾来航が待ち望まれていた〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.49〕。1月27日に基隆に到着後、第四十三駆逐隊の指揮下に入って「梅」「汐風」とともに高雄に向かった〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.54〕。 1月31日朝9時〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.60〕、「梅」「汐風」とともに高雄を出撃してルソン島最北端のへ、フィリピンからの搭乗員救出任務(パトリナオ輸送作戦)とアパリ防衛のための高雄陸戦隊や燃料、車両、弾薬を乗せて向かう〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.56〕。出撃から2時間後、偵察のB-24 に発見され〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.60 、木俣『日本水雷戦史』614ページ〕、対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃、台湾最南端ガランピ岬南方20海里において第14航空軍所属のP-38 ライトニングに護衛された第38爆撃航空団所属のB-25 ミッチェル12機と第35戦闘航空団所属のP-47 サンダーボルト4機の空襲を受ける。一番砲後部に被弾して一番砲は使用不能となり、艦橋下部構造物は大破する〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.61〕。艦前部が大きく浸水して大火災も発生し、便乗者を含め54名が戦死したが、応急措置により危地を脱出して沈没は免れた。「梅」は3発被弾の上機械室が破壊され航行不能となり、「汐風」の砲撃によって処分された。その「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。輸送作戦は中止となり、高雄に帰投した。 高雄と基隆で応急修理が行われた後、2月18日に基隆発のタホ船団を護衛して出港〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.20〕。2月19日未明に爆撃を受けた後、船団と分離して単独で呉に向かい〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.21〕、2月23日に帰投〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.22〕。修理は4月26日まで行われた〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.76,83〕。復帰後は「柳」「橘」に代わって、「竹」とともに回天目標艦として光、大津島方面で行動した〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.84〕。8月15日の終戦を航行可能状態で迎え、10月5日に除籍された。 12月1日付で特別輸送艦となり復員輸送に従事する。1945年(昭和20年)7月6日、上海で中華民国(台湾)に賠償艦として引き渡され、接二号と仮命名された後、衡陽(ホン・ヤン)と正式に命名された。国共内戦中の1949年5月に淡水に移動し、10月1日に訓練艦隊に編入されて練習艦となった〔田村, 138ページ〕。しかし、機関の状態がよくなく放置され、再武装もされなかった。1960年に除籍後、解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楓 (松型駆逐艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese destroyer Kaede (1944) 」があります。 スポンサード リンク
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